善福寺のあゆみ

はじめに

私どものお寺は正式には箕手山善福寺と号します。現住職で4代目である善福寺は寺院としては歴史が浅いと思われるかもしれませんが、それには理由があり脈々と続く門信徒の思いは何十代にもわたるものです。


寺院としての津での善福寺

戦前 善福寺本堂

現在の三重県警本部あたりに土地の寄進を受け、藤堂藩から対面所の建物を譲り受け東京麻布の善福寺の出張所として慶応2年(一八六六)に開所しました。津において他の寺院に預けられていた浄土真宗の門徒にとっては大変な喜びであり、様々な法要・儀式では常にあふれんばかりの参拝者があったと伝えられています。また、当時の東京麻布の善福寺は徳川幕府から特別な庇護下にあった寺院ということもあり、藤堂藩主が偕楽公園の行き帰りに善福寺の門前を通るときには必ず下馬して通ったという逸話も残されています。

 時代は明治になり明治6年(一八七五)に東京麻布の善福寺からアメリカの領事館は移転したため、津にいた善福寺の家族は東京に帰ることとなりました。しかし、津の門徒は出張所を残し、寺院として存続することを強く願いました。その門徒の願いを受け、釋得忍が初代津の善福寺住職となりました。

戦後の善福寺

善福寺 鐘楼

時代は移り、第二次世界大戦は厳しい状況を生み出していきました。津の町にも焼夷弾の雨がふり、善福寺も灰塵に帰してしまいました。最低限の仏具と本尊だけは避難させましたがすべてが失われてしまいました。その後しばらくは本堂再建などできる状況ではありませんでした。

 そのような状況の中、昭和28年に善福寺の隣にあった市立病院(後の三重大付嘱病院)の増築にあたり、寺院敷地の売却の話が進行しました。替地として当時工芸学院(津工業高校の前身)があった現在地に移転し本堂が建てられました。しかし、当時は物が不足しており、経済的にも苦しい時代でした。そこで、旧海軍の兵舎の木材を譲り受けるなどし、また大工も宮大工でなく地元の門信徒たちの手によって建てられました。

旧本堂から現在へ

善福寺 外観

物資のない時代に古材を再利用するなど当時の方々の大変な熱意と苦労と工夫により旧本堂が建てられました。旧本堂では子供たちのための塾が開かれたり、津祭りの武者行列の出発地点になど地域と共に歩んできました。しかし建築から約六十年以上が経ち相当の傷みがでていました。その間一度は屋根瓦を葺き替えるなど補修を重ねてきましたがそれも限界になっていました。そんな中有縁の様々な協力のおかげで本堂を新築することができ、現在のきれいな姿になりました。